フォント選び~変化の振り幅~
- すずりもん

- 2月4日
- 読了時間: 3分
更新日:3月15日

フォントによってサイト全体から受ける印象は大分変わる。
以前のサイトではメイリオという柔らかなフォントを多用していたので、幾分かポップな感じだった。そこで、今度は「一応は」スマートとかシックとかをコンセプトにしたサイト作成を試みることにした。以前のサイトが気に入らなかったわけではない。けれど、思いついたことがあると手を加えてみたいという好奇心が湧いてくるので、それの向くままに新しい方向性も試してみたかったというのがある。
感覚的なことに過ぎないのだが、スマートとかシックとかの雰囲気と相性が良いような気がして、明朝体系統のフォントを多用するようになった。サイトの制作作業の途中までは、あまり気にせずに上の画像の「筑紫Aオールド明朝」だったり「マティス」だったりと、おもにこれらの2つのフォントを思いつくままに使ってきた。当初は「あらかた同じ」くらいにしか見えなかったからだ。
ところが、作業を続けるうちにこれらの2つのフォントのどちらを使うかでページ全体の印象が幾分ながら異なって感じられるようになった。おそらくフォントに目が慣れてきたためだ。
こうしたことは書作においては往々にして起こる。頻繁に見ている自分の作品については、見慣れている分、小さな違いにも気がつく。その微細な差の中で、これがいいあれはだめだと悩んでいる場合がほとんどだ。ところが、実際のところ、第三者の目からしてみれば、並べればこそ違いが分かったとしても、個々に見れば「あらかた同じ」だったりする。
大袈裟かもしれないが、自作に対して自身が感じている「違い」は、他者から見ればその3分の1、いや、10分の1程度かもしれない。その数字の信ぴょう性は別として、少なくとも自分が見て「違う」と感じる程度と他者が見て感じるそれとの間には大きな隔たりがあることは間違いない。
作品というのは、最終的には他者の目の前に披露して初めて作品の役目を果たすと言える。そこで言いたいのは、単に相手の目を気にすべきだということではない。相手の目の前にそれまでの自分とは変化した新たな世界を示したいのなら、自分の目が捉えているものの何倍も大きな変化に挑む必要があるという作品制作上の心構えというか、前提と言っ方が良さそうなものだ。
もちろん、「筑紫Aオールド明朝」と「マティス」のような比較的微細な差をもって総体的な印象としてその違いを醸し出すのも悪くはない。一方で、「筑紫Aオールド明朝・マティス」と「メイリオ」とでは意匠はもちろん、一見しただけで印象が全く異なる。「筑紫Aオールド明朝」や「マティス」に対しての「メイリオ」のようなドラスティックな変化を表出できれば表現の幅は飛躍的に広がることは間違いない。前者のような小さな振り幅での変化を見せられる書き手は多くいても、後者のような振り幅の大きな変化を表出できる書き手は極めて少ない。もちろん、「書風」の名のもとに振り幅が次第に小さく集約していくこともあろう。しかし、ブログ主としては、小から大までの変化の振り幅を自在に操れることの方に魅力的を感じるし、理想郷はそちらにある。
そんなことを考えつつ、「筑紫Aオールド明朝」と「マティス」のどちらのフォントにこのサイトのメインフォントとして統一しようかと悩んでいたわけだが、これは、言わば小さな振り幅の問題の方ということになる。つまり、どちらを選んだとしても、わざわざ見比べる機会もあまり想定されないから、多くの人々の目には「あらかた同じ」に見えるだろう。だが、印象として雰囲気を受け取る人はいるかもしれない。
ちなみに最終的にブログ主が選んだフォントは「マティス」である。
