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Miscellaneous​

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 これまで2度サイトを移行してきた。つまり、リニューアルを含めて大きくは3回サイトづくりを試みたことになる。家は3回建てないと満足できないなどと言うが、サイトは3回でも満足できそうにない。

 今回はサイトそのものはさておき、このサイトに再々度ブログを置いてみようかという、懲りないサイト主の独り言である。

 過去のサイトにはいずれもブログを設置していた。

 最初のブログは、書展での審査結果報告をメインに始まった。が、正直に言えば、書いている本人があまり気乗りしなかった。書展の結果は賞歴にでもまとめれば事足りるわけで、そこに御託を並べてアナウンスしているのを読み返すと我ながらうんざりしてきて気持ちが萎えるのだ。アクセス数は確かに多かった。けれど、見方を変えれば、それは単に人が群がりそうなネタを撒き散らしただけの俗な話題づくりだったのだろうとつくづく自省している。

 自分の書への向き合い方を考えれば、書展結果を報告するというやり方が自身の活力になるはずもなかった。書作においては、結果どうこうよりも制作過程での古典からの換骨奪胎や思考錯誤の方がはるかにその次の自身の制作の活力や血肉になる。古典の特長をそれなりに捉えられたときは小躍りしたくなるし、いにしえの空気を感じたときの爽快感は筆舌しがたい。片や審査結果はあくまで審査結果、出たらそれでおしまいで十分だ。改めて考えてみれば、気持が萎えていたという当時の自分の感覚は至極当然だったと言える。

 今思えば、その違和感を感じることがなかったら、今頃はより見栄えのいいアナウンスばかりに拘泥する結果至上主義者になっていただろう。それではせっかく自分が飛び出した「肩書だけ見て作品を見ず」という権威主義的な体制側の群衆と何ら変わらない。もっとも、仮に今頃そうなっていたとしても、本質を問うてみれば自分も似たり寄ったりの俗物だったと諦めるしかない。あるいは、5年後になるか、10年後になるか、気づいたときにはこんなことをしていたのかと自身にひどく失望するだろう。

 しかしながら、違和感というか、「これは違う」という僅かな感覚を抱くことができた自分は幸いだった。自分はほどなくしてそのやり方を断つた。

 そののち、サイトをリニューアルしたのを機に、書展での審査結果がどうこうではなく、とりとめもない日常や趣味のことを綴ったり、煩わしいカネやコネが絡まない魅力的な書展の情報を発信するブログに舵を切った。この方向性にはそれなりに満足していたし、それまでよりもよほど自分らしい気がした。

 しかし、ブログ主はいわゆるワンオペで仕事をしている。休みも不定期だからコンスタントにブログを書くことができない時期も多い。書展情報についてはもっと多くの地方展まで網羅してみたかったが、個人の開設サイトでは発信力もたかが知れている。収情報集に充てられる時間にも労力にも限りがあった。何より、自分は情報発信者ではないから、それよりも書作に時間を充てたかったというのがある。

 理由はざまざま入り組んではいるが、更新頻度という問題がいつもついて回った。月に十数回更新できるときがあると思えば、月に数回、いや1回くらいしか更新できないときもあった。そういうものだと割り切るのもひとつだろうが、更新が滞ると自然「ブログをサボっている」という罪悪感のようなものが湧いてくる。この感情がまた次のブログの筆を遠のかせる。結局、リニューアルしたブログについても、もっと自分のライフスタイルとか書作とかと共存しやすい方法はないだろうかという思いが募るようになった。

 2度目のリニューアル経てたどり着いたのがこのサイトなのだが、作業の過程であれこれ思案するうち、新しいサイトには当面の間ブログを設置しなという方針でとりあえず落ち着いた。「当面の間」とは何とも都合のいい言葉で、瞬く間に1年以上が過ぎた。ブログなしとはいえ、それはそれで快適と言えば快適だった。こういうやり方もあるなという気持ちが強かったし、今もそう考えるところが少なくない。

 ところがだ。サイト主は、何かを思索するのにしばしば文字に起こすことがある。例えばこの文もそうだ。それ以外にも、こんなことがあったとか、こんなふうだったととか、備忘録として書き留めてしておきたいときもある。あるいは、写真を上げて記録しておきたい物事もある。つまり、時々ブログに書き残しておきたくなるときが稀だけれど確かにあるのだ。要は、あっちが立てばこっちが立たず、主にとってはブログというものは、なかなか取り扱いの厄介な存在だったということである。

 人間は考える葦だとパスカルが言ったから―ではないが、この1年、どうしたものかとふと思い出しては思案することがままあった。とはいっても、すぐに良案が浮かぶほど甘くはないことは重々承知していた。そんな折、灯台下暗しと言えば陳腐だが、存外身近なところからヒントを見つけた。

 サイト主は書作のアイデアが浮かぶと、とりあえず詩文や構想などをワープロソフトでパソコンに打ち込んでおいたり、構図を記したものをスキャナで取り込んでデータ保存したりしている。実際にその案をいつ使うとも使わないともそれは分からないのだが、そのデータはいつの間にか膨大な量になっている。

 言うまでもないことだが、それをいつどのくらいの頻度で追加したかなど全く記憶にない。データのプロパティでも確認すれば更新日くらいは分かるのだろうが、日時などそもそも必要がないから調べることもない。けれども、その日付もなく積み上げられたデータは、間違いなく自分にとって新作のアイデアの貴重な宝庫になっている。

 主がそこから至った結論は、ブログの「日付」が邪魔なのだということだ。主の書くブログは、多くが日時を要しないものだ。なのに、ブログに日時が表示されるから、「しばらくブログが更新できませんでした」とか「お久しぶりです」なんてお決まりの挨拶からブログを書き始める羽目になる。さらには、更新間隔が空くと、「更新頻度」という魔物がひたひたと押し寄せて来る。対照的に、主にとって救世主たる新作ためのデータ倉庫の方には、「いつ」も「何時」も、ましてや「お久しぶり」もない。これこそが主が描くところの「快適さ」の鍵なのかもしれない。

 幸いにして主のサイトは自身で立ち上げている。サービス提供されているブログサイトならば要らぬ日付ももれなくついて来るだろうが、自作のサイトならば日付表記を消すことなど造作もない。旅行記や紀行のような日付けのほしい記事ならば、題名なり本文なりに書き記せばいい。

 このアイデア、果たしてどれくらい上手くいくだろう。正直、皆目見当がつかない。なにせこのサイト自体、上述の通り既に数回の改編を繰り返しているくらいだ。しかし、それはそれで悪いことではないだろうと開き直っている部分もある。

 仮に新しいこと着手して失敗したとしても、最終的には得るものの方が多いに違いない。今回にしてもまた新たな道ができたではないか。忌むべきは継続とか反復とか言う名の陰にひっそり身を隠しているマンネリだ。安住と言えば聞こえはいいが、マンネリは安住の中でくつろぐのが大好きだ。そこには変化もなければ進歩もない。まさに、このことは主の書作における経験と実感そのものある。

 そんなわけで、これまでとは違った新たな試みの一環としてブログを新設してみようと思う。タイトルについてはこんなのはどうだろう。「すずりの聲~日付けのないブログ~」。

 ただひとつ、これは先に断っておいた方が良さそうだ。いつまで続くか、上手くいくか―こればかりは主にも全く分からない。

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