
Miscellaneous
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すずりもんのキャラクターのもとになっているのは、十代の終わりに管理人が初めて手に入れた硯だ。
当時の自分は書道というよりも習字と言った方がいいだろうか、いわゆる手本を真似て文字を書いて、添削してもらってはまた書く―という幼稚な手習いをしていたに過ぎない。そんな書とか書道はおよそかけ離れた程度の単なる習い事をしていただけのことだから、いわんや用具のことなどからっきしだった。
硯についてもそうだった。知っていることと言えば、「端渓硯」という名前ぐらいだった。ところが、なぜだろう、ふと訪れた用品屋の店頭に並んだある硯にいたく心を魅かれた。
店主は、突然店を訪れてじっと硯のショーケースに張り付いている得体のしれない来客に近づいてくると、とつとつと居並ぶ硯の説明をし始めた。自分はうんうんと頷くだけで、何も理解していなかった―というか、理解できなかったと言った方がいいだろう。
目的の硯の番になったとき、店主は「大西洞の5吋硯板で…」とかなんとか言っていた。自分はやはりその意味を十分には理解していなかったが、記憶に留めたその言葉を店主の話も上の空で心の中で繰り返した。「だいせいどう、5インチ、けんばん、だいせいどう、5インチ、けんばん…」。
店主の説明がひと通り終わったところで、自分反復していた言葉を切り出した。「…このだいせいどう、5インチ、けんばんが…欲しいんですが。」 そうは言ったものの、値段は当時の自分にびっくりするほど高額だった。そこで、アルバイト代が貯まるまで取り置きをしてもらえないかと頼み込んだ。店主はおよそ当たり前の若者なら興味など示すことのなさそうな代物をどうしてもと欲しがる初顔の願いを快く受け入れてくれた。
アルバイト代が貯まるまでの間、自分はしばしば店に通った。2、3回も通うと店主も顔を覚えてくれた。そして、自分は都度あれはまだあるかと尋ねた。あの約束が冷やかしではないと伝えなければならないと思ったからだ。店主は決まって、あるよとカウンターの裏から取り出して来て見せてくれた。匣(はこ)を開ける度にその硯は妖しい魅力を放っていた。
数か月後、ようやく目当ての硯を手にした。それくらいも経てば多少は慣れとか飽きとか、そういうのも出て来そうなものだが、その硯に対する不可思議な愛着のような情愛のような感情は、冷めるどころか深まる一方だった。自分は来る日も来る日もその硯を眺めたり撫でたりしていた。二十歳前の青年が夜な夜な硯を愛でているのだから、今思えば随分と滑稽な話だと我ながら思う。
2000年代初めに発生した宮城県北部連続地震で拙宅が全壊した。続く余震の中、「危険」という赤紙の貼られた家屋に入るのは足がすくむほど恐ろしかった。
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数日ぶりに入った部屋には千冊を超える蔵書が散乱し、地震に追い打ちをかけるように降り続いた雨のせいで部屋じゅうが水浸しになっていた。水に濡れた書籍は外側が青カビで覆われ、何の本だったかようやく判別できるかどうかという無残な姿になっていた。
書籍もそうだが、家具や家電もほあらかたすべてのものを諦めざるを得なかった。ぐるりと見回す部屋から感じるのはただ虚無だけだったが、命があるだけで幸いだった。
とはいえ、日常生活を営んでいかなければならない。そんな現実が厳然と目の前にあったから、かろうじて使えそうなものを見つくろって仮の住まいに持ち出すことにした。
揺れが来ては外に逃げ、探してはまた外に逃げてを繰り返しながら、使えそうな僅かな荷物を運び出した。結局、仮の持ち出すことができたものといえば、ノートパソコンとプリンター、それから何本かの筆と十数面の硯くらいだったと記憶している。揺れと倒壊の恐怖の中で冷や汗を流しながら見つけ出して持ち帰った硯の中にこの硯が混じっていたのを確認したのは、それから随分あとのことだった。
東日本大震災で被災した際には自宅のみならず地域全体が壊滅的な被害を被った。けれども、不思議なことにこの硯と離れ離れになることはなかった。
幾度となく惨禍に見舞われてはきたが、日常を取り戻す頃になるといつの間にか元のように傍らに鎮座しているのがこの硯だった。それがどういった縁なのか―それを問うたところで答えなど出ようはずもない。
今では所蔵している硯は百面をゆうに超えた。値段や価値だけで言えば、この硯よりも高価なものも少なくない。しかし、今でもいちばんお気に入りの硯はと問われれば、迷いなくこの硯だと答える。
最も長く苦楽を共にしてきたからだろうか。初めて手に入れたという思い入れがあるからだろうか。災禍を乗り越えてなお常に傍らにあるからだろうか。理由は皆目分からない。けれど、「すずりもん」とあれこれ語り合うのは決まってこの硯で墨を磨っているときだけだ。