しのぶれど(1)
- すずりもん
- 2月16日
- 読了時間: 5分
更新日:4月3日
普段殆どコミックを読むことのないブログ主だが、近江神宮を訪れたのをきっかけに、末次由紀著『ちはやふる』の冒頭数巻を読んでみることにした。当初は導入程度と思っていたのだが、のらりくらりと数年かけて読み進めるうちにいつの間にか全50巻読み切っていた。ここでは同著の台詞や場面をブログ主の全くの独断と偏見で勝手気ままに取り上げて書き綴ってみようと思う。なお、ブログ主の生き方は主人公・綾瀬千早には程遠く、理解が及ばないところが多い。むしろ、その好敵手として描かれる若宮詩暢への共感の方が強いので、詩暢を取り上げることが多くなるだろう。著作名『ちはやふる』に対して、本記事の題名が「しのぶれど」となっているのはそのためだ。
「真っ赤やよ」―近江神宮の色―
近江神宮の近江勧学館では、かるたの名人戦やクイーン戦をはじめ多くのかるたの大会が行われる。実際にブログ主が近江神宮の近江勧学館を初めて訪れた時も、高校生のかるたの大会の真っ最中だった。
近江神宮には天智天皇が祀られている。百人一首の一番歌は、天智天皇が詠んだ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ」の歌である。近江神宮がかるたの聖地とも呼ばれるゆえんがここにある。
さて、今回は同作中から近江神宮に関する描写を取り上げてみよう。
幼少期の千早は、自身にかるたを始めるきっかけを与えてくれた綿谷新に問う。「近江神宮てどんなとこ?」
![末次由紀著『ちはやふる] 四 講談社 92頁より](https://static.wixstatic.com/media/47952e_89f6c0da54284671bc8c8955940d8d21~mv2.jpg/v1/fill/w_980,h_267,al_c,q_80,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/47952e_89f6c0da54284671bc8c8955940d8d21~mv2.jpg)
新の答えは「真っ赤やよ」。至って簡潔だ。後に述べるが、この回想シーンの簡潔さが、結果的にこの場面に絶妙な機微を与えているように思う。
![末次由紀著『ちはやふる] 四 講談社 93頁より](https://static.wixstatic.com/media/47952e_40c7e91af31e425ab2d429a90eaf9a2a~mv2.jpg/v1/fill/w_532,h_327,al_c,q_80,enc_avif,quality_auto/47952e_40c7e91af31e425ab2d429a90eaf9a2a~mv2.jpg)
この「真っ赤」とは、ひとつには近江神宮のシンボルとも言える楼門の丹色を指しているのだろう。近江神宮に足を運んだことのある人の中には、その楼門の丹色が鮮明な記憶として残っている人も多いはずだ。この丹色の楼門はまさに荘厳である。特に階段下からの眺めると、そびえ立つようなたたずまいに畏敬の念を抱かずにはいられない。ブログ主が2度訪れたのはいずれも8月で、焼けるような日差しの季節であったが、夏らしい碧空と深緑色の木々の葉、そして楼門の丹色の対比はさながら何かの舞台のセットの世界のようだった。

ところで、調べてみると一般的な丹色のカラーコードは#F37053らしい。そして、この補色(反対色)は#53d6f3である。おおむねフォーゲットミーノットという色に当たるそうだ。


下に分裂補色の一例を挙げておく。分裂補色は、補色から等間隔の両隣の色をさす。補色関係はよりコントラストが際立ち互いの色を引き立て合い、分裂補色との組み合わせは補色関係よりも調和しやすい組み合わせだそうだ。


ブログ主が撮った写真を見ると、その彩りはちょうど丹色と補色、あるいは、丹色と分裂補色による色彩イメージに近いように思われるが、いかがだろうか。もう一度比較用に画像を添付しておく。


神社・神宮では丹色はまま見られるから、空色や緑系の補色や分裂補色の取り合わせた景色は各地で見られる。が、近江神宮においては、40段ほどある階段下から楼門を見上げながら階段を上り、同門をくぐって拝殿や本殿に至るため、自然、空色と丹色とのコントラストに目が行く。足を運ばれる方がいたら壮大な楼門の姿を季節季節の空の色ともに是非楽しんでいただきたい。
さて、もう一度、新の「真っ赤やよ」という台詞に戻ろう。この言葉は、楼門の赤に加えて、作中の「千早の札」の意味も内に秘めていると言えるだろう。「千早の札」とは「ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌の札を指すが、この歌中の「からくれなゐ」の赤色だ。実際、この描写の直前には、歌の意味を教えてくれたかるた部員の大江奏に千早がこう吐露している。「私 かなちゃんに教わった日から『ちはやふる』だけが真っ赤に見える 競技線の中で 真っ赤なんだ」(末次由紀著『ちはやふる] 四 講談社 91-92頁)。なお、唐紅の色味は下の通り。

近江神宮の楼門と千早の札の二つの「赤」、厳密に言えば丹色と唐紅ということになろうが、これらを「別の色」と言う人も少なくないだろう。実際、近江神宮の楼門を見た奏も「赤っていうか朱色ですね」と言っている。しかし,千早は「唐紅」も「真っ赤だ」と言い、楼門も「赤いね」と言う。それ以外の語彙で表現することがない。
![末次由紀著『ちはやふる] 四 講談社 99頁より](https://static.wixstatic.com/media/47952e_b318dc98511849868bbe5dbd3e08aed5~mv2.jpg/v1/fill/w_659,h_271,al_c,q_80,enc_avif,quality_auto/47952e_b318dc98511849868bbe5dbd3e08aed5~mv2.jpg)
時に繊細な一面を見せ、時に雑把な一面をもって描かれる千早だが、本エピソードでは千早の後者の性格を打ち出すことによって、結果的に、新の「真っ赤やよ」の言葉に絶妙な機微を与えているるように思う。つまり、丹色も唐紅も「赤」と言ういささかコミカルとも大雑把とも言える言葉を発する千早であるが、この丹色と唐紅を「赤」としてひとくくりにすることで、逆に回想シーンにおける新の「真っ赤やよ」というシンプルな台詞が、「真っ赤な札」の主人公と「真っ赤な楼門」の近江神宮との深く長い結びつきを暗示するかのようなドラマチックな言葉として作中で浮かび上がってくるように感じられるのだ。
事実をあるがままに言い得て、それを正確に受け取るというのが言葉や文字の基本であろう。が、一方で、含みや解釈の余地を残したやり取りの中でその機微を感受する、それもまた言葉や文字の面白みなのかもしれない。
かく言うブログ主であるが、一場面の僅かな言葉についてくどくど述べていることは本記事の通りである。まさに言葉の機微とはかけ離れた反面教師の最たるものだろう。
が、近江神宮の楼門の色は何色かと問われれば、ブログ主の答えは迷わず「赤」である。